第三話









 いつか私を知る人が現れたら、きっと何かが変わると思ってた。
 だけどそれは、こんな状況ではないはずだったんだ。




 声が出ない。視界がぐらぐらと揺れる。
 自分を『知り合い』の目で見る紅髪の男を前にして、ルキアはどうしていいのかすら分からず立ちすくんだ。

 逃げたい。
 男の強すぎる視線に、何か触れてはいけない世界を感じている。
 だけど、訊きたい。
 己の名を知る男。己を呼ぶ男。それがどういう意味なのか。

(―――私を、知っている…?)

コノ男ハ、人デハナイノニ。




 かすかに震えたルキアの唇に、男は我に返ったように凍りついた視線を解いた。
「ルキア、お前」
 再び名を呼ぶ声は、先ほどよりも強く焦りを含んでいる。伸ばされかけた大きな手は、けれどルキアの身体が目に見えて強張りを見せたことで結局行き場を失くした。

「貴様、は」

 ようやく音として出た声はひどく掠れていて、男に届いたのかもルキアには判別が付かなかった。
 一度、ゆっくりと唾を飲み込む。そんな動作すら困難なほど喉元は渇いていた。けれどそれによって、やっとまともに呼吸が出来たような気がして、彼女の張り詰めていた糸が僅かに緩む。


「私を、知っているのか?」


 先ほどよりも滑らかに出た言葉に、返事はなかった。
 男の眉が大きく歪み―――ゴーグルの影でそれまで気づかなかったが、彼の額には刺青らしき模様が見えた―――唇は長い沈黙の後、ただ一言マジかよと独りごちるだけだった。

 男が何者かなど、この際関係ない。己の言葉の奇妙さを自覚しつつも、ルキアは焦れるように再び問うた。

「『私』を知っているのか?人違いということはないか?
もしもお前が幽霊なら、生きていた頃に私と知り合いだったのか。それで私に何か用があって探していた?……それなら!」





「尸魂界」
「……なんだ?」

 その短い言葉は、ルキアの頭の中で意味のあるものとして認識されなかった。耳慣れない単語に、ルキアは二、三度瞬いて男を見る。


「瀞霊廷……戌吊はどうだ!?」


 再びの言葉に、ルキアの眉が困ったように寄せられた。
 それは自分に関係のある何かなのだろうか。ルキアの声音に、僅かに苛立ちが混じる。
「だから何なのだ、それは」

「―――死神」

 最後の言葉だけが、理解できた。けれどそれは。

「俺とテメーのことだ。分かるか!?」

 言葉を返すのに数拍かかった。
 首を振ろうと思ったが、男の目があまりにも真剣で俯くことしか出来ない。
 申し訳なさと落胆で、声が沈む。

「それは……多分、人違いだ」








 百歩譲って(実際はもっと譲って)男が死神だとする。
 男が人間でない以上、それはありえない話ではない。
 けれど、男は『俺とテメーのこと』と言った。つまり、ルキアも死神だということだ。

 それはさすがに、無い。ありえない。
 それと比べれば、今まで嘘くさいと思い続けていた家族の話のほうがよっぽど信じられる。だってそうだろう。

「私は人間だ。まだ死んでもいなければ、人間以外のものになった覚えもない」
「んなわけあるかっ!テメーが…」

 言葉が、途切れる。

 いつまで経っても続く言葉が出てこないことに、どうしたのかと訝しんだ。
 男が探しているのが別人だと分かって心に余裕が出来たのだろう、ルキアは真っ直ぐな目で男を見上げる。


 見上げて、―――瞠目した。


 男の手が力強く引き寄せて、ルキアの白い頬に触れたのだ。
 あっさりと彼女の顔を覆ってしまうほどの大きな掌は、一度だけいささか乱暴に、二度目からは壊れ物に触れるように頬をなぞる。
最初の痛みに眉を寄せて、ルキアは抗議の言葉を口にしようとした。
 けれど出来なかった。非難の表情が、次第に別の感情に染まっていく。

(どうして、そんな顔をする)


 別人だと言っているのに。
 私に触れて、何故そんな還る場所を喪ったような表情を浮かべる。
 外見からして直情的だろう男が、何故そんな血の気の引いた顔をしているのだ。


 ルキアは身動きが取れなかった。
 しようと思えば容易く出来るそれは、今はきっとしてはいけないものだった。
 下ろされたままのルキアの指先は、静かに拳をつくる。突っぱねることも慰めることもできないのが、ひどくもどかしかった。



(―――慰める?)



 何故その選択肢が生まれるのか、ルキアは不思議に思う。そして気づく。
 先ほどまであれほど彼を恐れていたのに、今はもう逃げたいとも思わないのだ。
 それよりも、目の前の男を放っておけない気持ちが彼女に焦燥を与えた。




 どうすべきか。答えが出る前に、男が動いた。
 頬に触れていた手が肩へと下ろされる。
 男の巨躯から考えれば低すぎる位置のそれは、男の力の強さをじかに感じさせ、ルキアは小さく呻き声を上げる。
「お前」
 低く搾り出すような声だった。聞き取れず、ルキアは軽く瞬きをした。
「お前、今どこにいる」
「……え?」
「この近くに住んでんのか。どこに行けば会える?」

 ルキアはたじろいだ。恐怖が失せたものの、男の真剣な様子にどんな反応を返していいのか分からない。
 何と言えばいいのか。



 家。

 ……家は駄目だ。黒崎家には強力な霊感を持つ人間が二人も居る。

 まだ彼の正体がハッキリしたわけではない以上、さらにややこしいことになるのは目に見えているし、何より大事な家族を巻き込みたくはない。
 いっそ嘘を教えるべきかとも思ったが、彼の真剣な顔を見るとそんな気にはなれなかった。


「……空座第一高校」

 ポツリと呟く。
「私はそこに通っている。他の奴らに迷惑をかけないと約束してくれるなら、そこに来い」

 男は更に強く肩を掴み、ルキアの顔を覗き込んだ。
 彼の目に映る自分の顔が、動揺に固まっているのが見える。

「また来る、ぜってー来る。だから、俺のことを忘れんな」

 反射的に頷いてしまった。その後になって、軽率すぎるような気がしたが、もう遅かった。
 そして、ふと思う。どうして今まで聞こうとしなかったのか。
 異界の存在に踏み込むのが憚られたからだろうが、それにしたって遅すぎる。

「……お前の、名前は?」

 聞けば、男は目に見えるほどの落胆と苦痛を表情に浮かべた。
 聞いてはいけなかったか。ルキアの胸が小さく痛む。
 やはり別人とは納得していないらしい彼は、彼女が名を聞いたことにショックを受けたようだった。
 それでも、感情を抑えた声で、名が返ってくる。







「阿散井恋次」


 どういう字を書くのだろう。想像ができなかったが、男の名はストンとルキアの胸に落ちた。
 名を知った安心感に、僅かに微笑を浮かべる。
「そう、か。覚えておく。私はルキア。朽木ルキアだ。
 …お前の探し人と区別を付けたかったら名字でも構わん」

 少しの冗談と、さり気ない牽制と、ぎこちない気遣いを混ぜて微笑う。
 けれど次の瞬間、ルキアは恋次に目を奪われて、その微笑を崩した。

 好戦的な口元。迷い子のような目。呆然とした姿。
 突然目の前に現れてからそんなものばかり見ていたのに、その瞬間彼は驚くほどに優しく。

「……いや、お前はルキアだ。俺が『ルキア』を間違えるはずねぇよ」


 ―――微笑ったのだ。


 否定することも忘れ立ちつくした、その直後だった。
 急に突風が襲い、横殴りのそれに身構えてルキアはきつく目を閉じる。
 風が収まってゆっくりと目を開けたときには、男は既にどこにもいなかった。


 ルキアは空を見上げる。
 煌々たる満月に、紅の残像を見た気がした。





 夢ではない、はず。
 ルキアは己の肩を見つめる。そこには未だ彼の掌の名残が残っていた。
 確信する。夢では、ない。









「……れんじ」


  初めて呟くはずのそれは、優しく闇に響いた。





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