第二話









「お兄ちゃん、ルキアちゃん知らない?」
「いねーのか?さっきメシ食って上に行っただろ」
「見てきたけどいないの!」


「ルキ姉ならさっき散歩しに行くって出てったよ」

 会話に入ったのは、リビングでテレビを見ていた夏梨だ。
先ほどまで風呂に入っていた夏梨は、その時に廊下でルキアとすれ違ったようだ。
一護はまたかと溜息をつき、遊子は唇を尖らせた。
「え〜、夏梨ちゃんてば何で止めてくれないの?」
「何でって…ルキ姉の散歩なんていつものことじゃん」
「そういうことじゃないよ。ね、お兄ちゃん!」
 話を振られた一護はガリガリと頭をかく。心底面倒だという表情だった。
「あいつ散歩ルート言わねーからなぁ…。迎えの行きようがねえっつーの」
 オヤジがうるさいだろうなという呟きに、双子の妹たちも一護と同じように溜息をつく。
 三人の予想した数分後の喧騒は、恐らく現実になるだろうから。






 夜は好きだ。陽光の下よりも、月光の下を歩くほうが落ち着く。
 そのことに気づいてから、ルキアは夕食後一人で散歩することを日課としていた。
 一心はルキアが変質者に遭うのではと心配して、せめて行く時は一護を連れていけと言うが、
ルキアはそれすらもよしとしない。

 誰かと一緒に居ても、その時だけは話をする気になれない。『邪魔』をされたくない。
質者に遭うことを不安に思ったこともないし、その心配は杞憂だと思っている。
 何より―――闇は『味方』だ。


 そう思うのが記憶を失ってからなのか、あるいは以前からなのか、ルキアには分からない。
 けれど結局どちらでも関係ないのだ。裏づけのない記憶など頼りにならない。
元よりそんなものは信じていない。
 それよりも、ルキアは感覚を大事にしている。
 自分は何を好きで、何を嫌いか。どんなことに慣れていて、どんなことに不慣れか。
 そういったことは全て何となく思うことだ。
 けれど、その「何となく」は、あやふやな記憶よりも余程心の支えになった。






(……随分遠くまで来てしまったな)

 気まぐれに違う道を歩き始めてしばらく経つ。
 いつもと違う景色はそれだけで心を浮き立たせ、気がつけば時間を気にせずに歩いてしまっていた。

 ふいに喉の渇きを感じて、ルキアは視界に映った自動販売機に近づいた。
 コインを入れた指が、けれどそのままの位置で止まったのは、






「メチャクチャな座軸に飛ばされたと思ったら、……まんざら間違いでもなかったな。やるじゃねぇか」






 なん、だ。



 頭上。どうして頭上から声がする。背の高い男が傍に立っていたとか、そういうことではない。
 もっと遥か高くから、声が。……笑った。


 恐る恐る傍らの電柱を見上げれば、その向こうに満月が見える。
 けれど、その月光に照らされる影は、柱のそれだけではない。


(人、影)


 それは大柄な男だった。闇に溶ける黒の袴を纏う男の、紅の髪が鮮やかに月光に浮かび上がる。
切れ長の瞳はルキアへと視線をおろし、そして―――ニヤリと笑っていた。


 ジリ、と後ずさる。
 噴き出す汗に思考能力が奪われながらも、あれが人ならざる者であることはすぐに理解できた。


 逃げなければ。

 鳴り続けるシグナルに頷いて、更に一歩下がった。その拍子に小石が踵にぶつかり転がっていく。
その音に耳を奪われた瞬間、男はルキアの目の前に立っていた。
「!」
「やっと見つけたぜ。ったく、本当に義骸に入ってやがるとはな。

 ―――テメェ何やってんだよ」


 ギラギラと光る獣のような目で見下ろされ、ルキアの喉がゴクリと鳴る。
 男の言葉は何かの意味を含んでいるようだったが、それが何なのかルキアには分からなかった。
それゆえに、彼の言葉は殆ど耳に残らず、言葉を返すことも出来ない。
 ルキアは再び足を動かそうとして、止めた。

(逃げられる、か?)

 無理だ。先ほどまでは闇に隠れて見えなかったが、男の腰には刀が差してある。
彼の風貌から考えて、それが木刀や竹光だとは考えにくい。…間違いなく、真剣だろう。

 男は人間ではない、…と思う。幽霊にも見えないが、確証が持てない。
 ルキアが霊感を持っていることを自覚したのはつい最近だったが、
その霊感は義弟と比べると大分劣るらしい。
 『見える』。けれど、人間との区別が付かない。
 目の前にいる『人の形をした存在』が、本当は何なのか分からないのだ。

 怖い。

 突然のことに呆然としていた表情に、初めて恐怖が浮かんだ。
 それを抑えようと、ルキアは震える声を必死で張り上げる。

「……何だ」
「あ?」
「何なのだ貴様は!何故私を狙う!?―――貴様は、何者だ!」

 何言ってんだと彼女の腕を掴もうとした男に、けれど叫んだことによって身体の緊張が解けたルキアは、
足に力を込めて跳び、それを避ける。



 刀を抜かれたら、終わりだ。
 それまでに逃げなければと思うが、男に背を向けることを考えると躊躇が生まれる。
 せめて、ほんの僅かの間でも男の足を止めることができれば。


 考えを巡らせるルキアの瞳は、凛として男を睨み続けた。
 緊張に唇を噛む彼女に、ふと男の顔にも戸惑いが走る。


「……本気で言ってんのか?」




 次の瞬間、ルキアは信じられないものを聞いた。
 男の唇から零れたのは、紛れもなく。









「ルキア」



 ―――己の名だったのだ。





>>>