夢む




  死神になろうと決めたのは決して崇高な志のためなどではなく、
  けれどただ生きるためだけでもなかったのだ。







  バタバタと隠そうともしない足音と荒い女の呼吸に思わず振り返れば、
  立てかけてあるだけの粗末な戸から泥だらけの少女が入ってきた。
  全速力で走ってきた様子の彼女は膝に手をついて、苦しそうに浅い呼吸を繰り返す。
  それが落ち着いてようやく、彼女はしたり顔でニンマリと笑ってみせた。

 「帰ったぞ、恋次!遅くなって悪かったな!」

  継接ぎだらけの着物の袖から二、三枚の銅貨を取り出す。久し振りの大収穫だ。
  これで食料を買えばしばらくはしのげる。戌吊では物々交換が普通だが、他の地区でも使える銅貨は
  やはり貴重なのだ。交換すれば冬が近い今でも、二人で食べるのに十分な野菜が手に入る。
 「やはり上の地区は羽振りが良いな。賃仕事もたくさんある。盗みをして手に入れるより気分も良いし、―――恋次?」
  上機嫌で言葉を続けていたルキアは恋次の表情を見て口を噤んだ。
  何故怒っているのだ。
  問おうとした時、恋次のごつごつした手がルキアの右頬に伸び、それを遠慮なく引っ張ってきた。
 「痛い痛いっ!…っ……何をするのだ、このたわけ!」
 「たわけはどっちだバカ野郎!何で賃仕事してきただけでこんなに傷だらけになってんだ!」


  怒りに任せて怒鳴りつける声に、ルキアは僅かにたじろいだ。
  長年共に暮らしてきた相手だ。短気な彼が今更怒ったぐらいで恐ろしいとは思わない。けれど。

  短い着物の裾から除く脛には縦に長い擦り傷が血を滲ませていて、細い腕には紫の痣、
  着物も今朝洗ったばかりだったというのに泥だらけでしかも袖が破れている。
  左頬の怪我は、どう考えても殴られた痕だ。

  ばれないわけはないと思っていたが、やはりそれでも泥は落とすべきだったと、ルキアは悔やむ。
  せめて恋次に要らぬ心配をさせまいと、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
  視線を合わせようとしたが、どうしても正面から見ることが出来なかった。
 「こ、これは転んだのだ!途中でやたら長く伸びた草があってな、気づかずに…」
 「……」
 「大丈夫だ。この程度の傷はいつものことだろう?昔から―――」
 「昔と、今は違うだろうが」
 「……」
  思いのほか静かな、どこか感情を押し殺した声に、ルキアは押し黙った。


  最近恋次はこうなのだ。昔と今は違うと言って、ルキアに一人出をさせたがらなくなった。
  盗みもさせないし、戌吊のゴロツキたちと喧嘩になった時もルキアが出ることを許さない。
  時折ある他地区の賃仕事は任せてもらっているが、こんな怪我をして帰ってきてしまってはまた色々と渋るのだろう。

  ルキアは不満だった。戌吊では男も女も関係ない。守ってもらうばかりで何もしない女などいないのだ。
  どんなに力のある男に囲われている女だって―――それがどんな類であれ―――働くし、戦う。
  そうしなければ生きていけない場所だ。
  大体、恋次と自分の関係はそれとも違うのに。二人きりの家族ではあっても夫婦ではないのに。
  家族は対等なはずなのに。


 「恋次。これは、この傷は」
  ルキアは自らの頬をさすった。痛みよりも熱のほうが強かったのに、指が触れた途端痛みが走った。
 「金を奪われそうになったのだ。それで噛み付いてやったら、吹っ飛ばされた。
  その隙に逃げた。それだけのことだ」
  先ほどよりも、多く真実を含んでいた。けれどやはり正しくはなかった。
  その男たちが人買いであることぐらいは会話で分かっていたのだが、それは敢えて言わない。言いたくない。
  ルキアの声音は次第に強張っていく。
 「だから大丈夫だ。明日は賃仕事はないし、川で魚を獲ることにする。町に行く時は声をかけるし、
  遠出はしない。それでいいんだろう?」
 「ルキア!」
 「……何故こんな承諾を取らねばならないのだ」

  爪が、掌に食い込む。

 「私はそれほど弱くはない!それは知っているだろう?
  大体、貴様だってしょっちゅう怪我をして帰ってくるじゃないか。しかも私よりひどい怪我をするくせに。
  何故私ばかりが守られる!」

  最後には嘆きのように響いた言葉に、ルキアは俯いて肩を震わせた。
  悔しい。悔しい。自分たちは家族なのに。家族のはずなのに。
 「あいつらは、私を守って死んでいった。恋次までが私を守ろうとしているのに、何故私には―――」

  何故、お前を守ることを許してくれないのだ。


  呟きに、言葉は返ってこなかった。
  恋次はただ黙ってルキアの手を引き、小屋の外に出て近くの川に連れて行く。
  その水で泥汚れや傷を洗ってやると、ルキアは冷たさと痛みにきつく瞼を閉じた。
  白い頬に片側だけ浮かぶ、赤い腫れがさらに痛々しく感じられる。






  ルキアは何も分かっていないのだと、恋次は知っている。
  誰も手を付けていない「紫の目のガキ」は今や戌吊の中でも格段に目を引く存在だ。

  霊力があるから体は成長するが、それも自分と比べると随分と遅く、ルキアはいつまで経っても少女から抜け出せない。
  それでも「女」として認識されるぐらいには育ってしまっているのだ。

  戌吊では女が少ない。弱いものから死んでいくのは無法社会の常で、それは戌吊も例外ではない。
  五体満足な女は更に少なく、その中でも美しい者は更に更に少なかった。
  ルキアに手が伸ばされるのは自然なことで、それを守り通せてきたのは奇跡に等しい。

 「なぁルキア。俺はお前が弱っちいとか頼りになんねぇとか思ってるわけじゃねぇよ」
  出来るだけ優しい声をかけてやれば、「嘘だ」と拗ねるような声が返ってくる。苦笑した。
 「嘘じゃねぇって。俺はお前がいなかったら今頃そこらへんで野垂れ死んでたからな」

  本当だった。くだらないゴミ溜めの町でルキアに出逢った時、彼と仲間たちは初めて
  「そこ」で生きる目的を見つけたのだ。この光のような宝物を守っていくことに、
  この世界に生きて初めて、誇りというものを感じた。

  ―――希望だった。

  そしてそれは今も変わらず。彼女を守りきった仲間たちには、死への悲しみとともに、
  ある種の憧憬すら感じていて。そして、同時に不安を感じる。
  自分は、守りきれるだろうか。ルキアを。
  出来ることなら最後まで、彼女が自然に輪廻を巡るその時まで。……守りたいと、思う。


  そのためには。




  最後の汚れを拭き取ると、恋次は片側の口角だけを上げて笑ってみせた。
 「テメーの今日の仕事のおかげで、明日は俺も暇だ。町で野菜買ってきたら、一緒に食おうぜ」
  痛みすら感じるほどの乱暴さでガシガシと頭を撫でる。
  それを手で防ぎながら、ルキアは「痛いではないか莫迦者!!」と目尻に涙を溜めて睨んだ。
  その視線を受け流して、恋次はケッと軽く吐き捨てながらルキアの手首を掴む。
 「もう帰るぞ」
  手を引いて歩けば、最初は多少よろつきながら、けれどルキアもきちんと後ろを歩き始めたのが分かった。
  安堵して息を吐く。背後から小さく呟かれた言葉には、もう何も言わなかった。


 「……それでも私は、力が欲しいよ…」









  冬が過ぎ春が来て、「彼ら」に名もなき花を贈る。
  風に流すように両手で放ると、三つの簡素な墓は淡い色の花びらに包まれた。

 『ありがとう。お前たちはずっと私の家族だよ』

  穏やかな声音で何度も囁く。感謝と、そして謝罪を。

 『一緒にいてやれなくて済まない。けれど、恋次は守るから。きっときっと守るから』

  ひそやかに誓って、立ち上がる。
  既に祈りを終えて彼女を待っていた恋次に、ルキアは強い意志を込めて告げた。





 「恋次。……死神になろう」
 「―――ああ。死神になろう」









  崇高な志のためなどではなく、生きるためだけでもなく。
  ただ、隣に立つ人を守る、その力を。