腕の中で






  六番隊隊舎を出て半刻もしない頃、隊舎の外れの林に辿り着いた恋次は疲れきったように脱力をした。
  …したくなるのも無理はなかった。

  「テメーこんなとこで寝てんじゃねーよ…」

  それもそのはず。処刑の件が一段落し、今は自らの屋敷で静養中のはずのルキアが、
  何故か屋敷から遠く離れた林の奥で寝ていたのだから。
  草むらを枕に仰向けで眠るルキアの寝顔はあまりにも無防備で、まるであどけない少女のようだ。
  その唇から穏やかな寝息が聞こえるのを確認するまで心配で仕方なかったなどと言うことは、
  せめてもの抵抗として絶対に口に出さないと決めた。
  ルキアの顔を見下ろすようにして、しかしどうしてこいつは気づかねーんだ、と盛大に溜息を吐く。


  ―――義兄である白哉の公私混同振り甚だしいシスコン具合に。


  一見冷徹そうに見える上司が突然不自然な時刻に「休憩を取れ」と言って自分を追いだしたのは、
  僅かながらに回復した義妹の微弱な霊圧を感じたからで、即ち「探して屋敷に送れ」という命令だった。
  そんなことなど露知らず、渦中の少女は心地良さそうに夢の中である。まったく良いご身分だ。




  さて、どうやって起こしてやろうかと考えたところで、しかしそれはあっさりと無駄に終わった。
  閉じていた瞼から紫の瞳が覗き、横たわったままぼんやりと呟いたのだ。

  「……今は仕事中だったような気がするのだが。サボリか、副隊長殿」

  「何だ、起きたのかよ。今は休憩中だ。隊長にテメーを屋敷に送ってこいって命令されてな」
  「…兄様が?」
  「おう。つーわけで起きろよ。具合悪いわけでもないんだろ?」
  最初に草むらに倒れているルキアを見つけたときは思わずそれを不安に思った。
  けれど彼女の顔色は囚人だったころとは比べ物にならないほど良く、白い肌も柔らかな色合いを取り戻している。
  寝顔から推測するにただ寝ていただけのようなルキアは、案の定小さく笑った。
  「ああ、問題ない」
  それでもまだ脳はきちんと働いていないのか、問いに頷いただけで起きようとはしない。
  恋次は焦れた。早く連れて帰らないと一体何を言われるか分かったものではない。

  「……おい、ルキア。早くしねーと俺隊長に…」

  その言葉はルキアの流れるような所作によって奪われた。
  体は横たえたまま両手だけを恋次に伸ばして、尊大な物言いで告げる。





  「起こせ」





  コノヤロウ。恋次は頬をひきつらせた。


  (こいつわざとやってんのか?)


  偉そうな口調とは裏腹に寝起きの瞳はとろけ、ねだるような仕草があらぬことを想像させる。
  このまま起こさずに押し倒してやろうかという不埒な考えは、しかし脳内を過ぎるだけで実行に移されることも
  忠告の言葉になることも無かった。犬はまだ狼になれないらしい。
  代わりに、彼女よりも二関節分ほど大きい掌をルキアに伸ばす。ルキアの望みどおりに伸ばされた手は細い手首を掴み、

  ―――けれどそれだけでは終わらなかった。


  「なっ…何だ、何をする!!」
  「何って起こしてやったんじゃねーか。おら、もう帰んぞ」
  勢い良く引き寄せた体をそのまま抱え、所謂「抱っこ」の状態で歩き始めた大男に、ルキアは力の限り抵抗を試みる。
  けれど腿のあたりがガッチリと抱えられた状態で暴れれば、僅かに自由になる上半身が不安定に揺れる。
  背から落ちそうな体勢になりかけて慌てふためき、結局恋次の肩にしがみつく形になってしまう。
  「降ろせ莫迦者!私は童ではないぞ!」
  「けっ、んなガキみてーな体して何言ってやがんだ」
  「……貴様、余程氷漬けになりたいようだな!」
  言葉には確かな怒りを含み、けれどしがみついたままの体勢では怒りは殆ど伝わらない。
  耳元へ送られる数多の罵詈雑言は、やがて諦めの溜息へ。
  こうなったらとことん使ってやろうと、反射的だった体勢を自主的なものへと変えたのが恋次にも分かった。
  ―――身を委ねたゆえに増した重みが、愛しい。



  「居心地が悪いか?」

  その言葉が何に対してのものなのか、ルキアは一瞬理解することが出来なかった。
  一定の波を持って揺れる自分の体に心地良いようなむず痒いような感覚を感じていて、反応が遅れたのだ。
  その言葉を飲み込んで数拍の後、やっと対象を理解し、柔らかな苦微笑を浮かべた。
  「いや、大丈夫だ。不思議なことに、最近ようやく朽木の家を自分の『家』だと思えるようになってな」
  四十余年の時を過去に持ちながら、そう感じるようになったのはほんのつい最近の話だった。

  考えてみればルキアにとって『朽木』の象徴は“兄”であったのだ。
  どうにも縮まらぬ距離に変化を望むことすら忘れた頃、ようやく「家族」となるきっかけを得た相手だった。
  距離は未だ僅かにぎこちなく、けれど彼が己を家族として大事に思ってくれていたことを知り、
  ルキアはようやく真に朽木家の娘となれたような気がした。それだけでも十分だった。

  知らず知らずのうちに彼女の声は踊っていく。
  恋次にとっては聞き慣れた、懐かしい声音であった。
  「それにな、此処にいると落ち着くんだ。恋次や兄様や、浮竹隊長や十三番隊の方たちの霊圧が感じられるからな。
  大切に思う誰かの霊圧を感じられるのがこんなにも心地いいものだと、ここに帰ってくるまで気づかなかった。
  ……気づけて良かったと、思っている」
  「………そーか」
  耳元をくすぐる声に、恋次はしかしルキアとは違うことを思った。
  確かに同じ世界にルキアの気配を感じられることには安堵する。けれど、それ以上に、


  ―――この腕の中に、いること。


  そのことがどれだけ心を震わせているか、恐らくルキアはまだ気づいてない。
  それを素直に伝えられるような気性ではないことを自覚している恋次は、
  代わりにルキアを抱きかかえる手に力を込めた。






  「なぁ、恋次。寄り道して帰らぬか?鯛焼きでも食おう」
  「いいぜ。テメーのおごりな」
  「うむ、構わぬぞ! その代わり連帯責任で一緒に兄様に怒られてくれるな?」
  「………」



  多分怒られるのは自分だけだという予感は確信に近かった。