近く、遠い




  尸魂界でも珍しい異国めいた名前の意味を、教えたのは石田雨竜だった。
  現世の知識を少しでも得ようと向かった図書室で、彼は分厚い本を読んで苦笑していたのだ。
  「朽木さん。君の名前だ」
  指先で示したのは、間違いなく己の名前。
  その頁を食い入るように見つめたルキアは、しばらく後に雨竜を見上げ、真面目な顔で言う。
  「私には、不釣合いな名だったのだな」
  朽木の姓と同じように。
  「そう思うかい?」
  「お前もそう思ったから苦笑していたのだろう」
  ふてぶてしく笑って見せれば、雨竜は再び口角を小さく上げる。
  ―――思えば、この男も随分と表情が柔らかくなったものだ。

  「いや、君はやっぱりその名に相応しいよ」





  それから数ヶ月も経って、その言葉を忘れかけていた頃だった。
  至高の宝玉だと、彼女の紫紺の瞳を褒め称えたのは、技術開発局の阿近だ。
  軽い薄笑いを浮かべて、『あぁやはり本物は違う』と言ったのだ。
  思慕は無い。好意も無い。あるとすれば、それは純粋なる欲だった。

  『あんたのその目は、どうすれば作れるんだろうな』






  雨竜の言葉と、阿近の言葉。
  ちらちらと心に舞うそれらを振り払うように、ルキアは頬杖をつきながら鯛焼きを頬張った。
  ひとくち、ふたくち。小さな唇を大きく開き、かぶりつく。
  味が分からない。幼馴染ほどではないけれど鯛焼きは好きなはずなのに、ちっとも美味しい気がしない。
  何かとても勿体無いような気がして、悔しげに眉根を寄せた。
  途端、骨ばった大きな手が彼女の頭を乱暴に掻きなぜ、もう片方の手が彼女の鯛焼きを奪う。

  「オラ、折角俺が奢ってやってんのに、何ぶすくれてんだ」
  「ぶ、ぶすくれてなどいない!返せ!」
  隣に座っていた恋次を強く睨むと、奪われた鯛焼きを取り返そうと手を伸ばす。
  しかしその手が鯛焼きに届く前に、それは恋次の口の中に消えた。
  「あぁっ、何をする!私の鯛焼きだぞ!!」
  「うるせェよ。てか、元々俺が買った鯛焼きじゃねェか」
  ぼかすかと殴るルキアの拳を平然と体に受けながら、もう一度ルキアの頭を軽く叩く。
  「―――で?何考えてたんだ?」
  彼の体を殴る、ルキアの手が止まった。



  「………瞳を」


  ぽつりと呟き、視線を空っぽの手に落とす。
  「瞳をくれと、言われた」
  「…………あぁ?」
  理解が数秒遅れる。その言葉が意味を伴って恋次の脳内に届いても、
  恋次は意味が分からないというように問い直した。
  「とある男に言われたのだ。私の瞳をくれと。
   それで、石田のことを思い出した」
  「ちょっと待てルキア!!」
  突拍子もないことを口に出すルキアに、恋次は怒号をかぶせた。
  きょとんとした紫紺の瞳に、低く絞るような声で問う。

  「………誰だ、その男」

  ここでその名を出したら、きっと恋次は奴を殴りに行くのだろう。
  それは彼女にも分かっていたから(その程度で収まらないことは分かっていなかったが)、
  ルキアはプイとそっぷを向いて鼻先を軽く上向ける。
  「言わぬ」
  「ルキア!」
  「貴様は話を聞く気があるのか!無いならこれ以上は何も言わぬぞ!」
  その言葉で納得したわけではないだろうが、とりあえず恋次を黙らせることには成功したらしい。
  ひどく不機嫌な恋次をそのままにして、ルキアは言葉を続ける。
  「私の名前のことだ。石田は書物に載った私の名前を見せた」
  「お前の名前?」
  「ルキア。―――聖女の名だそうだ」
  恋次が盛大に噴き出す。寄りによって、死神が聖女の名を持つとは。
  単純にそう思ったゆえだったのだが、ルキアは僅かに怒りを含んだ目を恋次に向けた。
  「どうせ私は可憐でも清純無垢でもない―――ないが、そこまで笑うことはないだろう」
  とは言うものの、ルキア自身、それは自分には相応しくない名だろうと思っている。
  だからこそ、ふんと鼻を鳴らすだけで留めた。
  「その聖女とやらは、自分に求婚した男に自分の目玉を渡して、
   『これでお前の愛する“美しい私”はいなくなったから、私のことを諦めろ』と言ったそうだ」
  「…………」
  「その話をな、今まですっかり忘れていたのだが、あいつの言葉で思い出した」


  美しい紫紺の輝き。それが光を溢すだけで、多くの者が彼女に心を奪われた。
  瞳の持ち主であるルキアはそれに気づいていない。
  最大の被害者である恋次は、それがひどく気に障った。


  「……で?」
  いつになく素っ気ない口調で問えば、「まだそんな仏頂面をしておるのか」と呆れる。
  ルキアは恋次が未だ匿名の人物について不機嫌なままだと思っているのだ。
  「……恋次ならば、どうする?」
  ―――焦がれる相手に、問われる。



  『私のことは、諦めろ』


  「………出来るかよ」
  ぎり、と奥歯を噛み締める。瞳だけで我慢しろだなんて、そんな馬鹿な話があるか。
  ひそやかに思い始めて既に五十年近く。
  未だ想いは成就していないが、このまま風化させる気は毛頭ないのだ。
  恋次が欲しいのは美しい何かではない。彼女の何かでもない。
  ―――“朽木ルキア”が、欲しい。

  「もうそんなこと聞くなよ。次聞いたら絶対に許さねぇぞ」
  「……分かった。すまなかったな」
  彼の沈んだ声に、ルキアも小さくなる。
  別に彼を怒らせたいわけではなかったのだ。
  それなのに、彼を試すようなことを言ってしまった。
  「でも、嬉しかったぞ」
  小さく呟くルキアの唇が、柔らかく緩む。いつもの不敵な笑みではない。
  それは恋次にしか見せない、あどけない笑顔。

  「多分、恋次のその言葉が聞きたかった」


  ―――ああ。
  やっぱりこいつは聖女なんかじゃない。それどころか程遠い。
  だって性質が悪いにも程があるだろう。



  「なあ。さっきの奴の名前、やっぱり言えよ」
  「貴様、まだ言うか……」