触れた温もりの温かさ






「そういやお前今日鷹士にチョコやってねーんだってな」

 白煙を吐きながら、思い出したように言った龍太郎に、ヒトミは振り返る。振り返って、後悔した。
保健室の机の上にはチョコの山。それを出来るだけ見ないようにしてヒトミは必死の笑顔で答える。
「そうなんです。お兄ちゃんから聞きました?」
「聞いたっつーか聞かされたっつーか……朝っぱらから泣いてたぞ」
「あー……、毎度ご迷惑をおかけします」
 その様子が容易に想像できて、ヒトミは頭を下げた。
もういい、慣れたと言うように手を振り、龍太郎は先を促す。
「ケンカしたわけじゃないんだろ?何かあったのか?」
「ケンカはしてないですけど。今日、私バレンタイン自粛なんです」
「あぁ?」
 真剣な目、気合の入った口調。そういえば、バレンタインには必ずヒトミの口から出ていた、チョコをねだる言葉が出てこない。
 そこまで思い至って、龍太郎はピンときた。
「…あー、なるほどな。今日は『いない』ってわけだ」
「そうなんです。というわけで、明日、お兄ちゃんにも先生にもチョコあげますから。楽しみにしててくださいね?」
 ヒトミの満面の笑顔を見て、青い春楽しんでやがるな、と龍太郎は好意の苦笑を浮かべた。






 失敗した、明らかに失敗した。

「あー……寒…」
 こぼれる息が白い。頬は冷気に麻痺し、唇は独り言でも言っていなければ凍えてしまいそうだ。
背にしているドアの向こうには誰も居ない。部屋の主はまだ帰っていないのだ。
ヒトミはしゃがみこみ、両手で持っている小さな包みをじっと見つめた。
「もうちょっと家で待ってれば良かったなぁ…」


 高校生のヒトミにはまだ遠い話だが、大学生の蓮は既に春休みに入っている。
本来ならば部屋に居るはずの彼は、けれどここ二、三日実家の仕事の関係でマンションにいない。
帰ってくるのは今日の夜だ。

 事前に聞いていた帰る予定の時間に家を出て蓮のの部屋に向かったのだが、肝心の蓮はまだ帰ってきていなかったようだ。
呼び鈴を幾度鳴らしても反応は返ってこなかった。
 部屋の合鍵は元々持っていない。部屋が近すぎて必要性をあまり感じなかったし、蓮は蓮でそういうことを言い出す性格ではないからだ。
もう一度部屋に戻ろうかとも思った。けれど、戻ったら最後兄が部屋から出してくれないだろうということは明白で。
ヒトミを心配して『蓮が帰ってくるまでうちで待ってる?』と尋ねた神城の厚意も丁寧に断り、ヒトミはひたすら蓮を待った。

 気温は去年よりも寒いぐらいだと天気予報が言っていた。
客観的に考えればそれは確かで、けれどそれでも去年より暖かく感じるのは。


(安心感ってことなのかなぁ)
 この手の中の物は、行き場を失うことは無いのだと。





「何してるんだ、馬鹿」

 冷気に掠れた声に、ヒトミは頭上を見上げた。寒さで紅く染まった頬を緩ませ、寒さで固まった膝を伸ばして立ち上がる。
その表情はご主人様が帰ってきて尻尾を振っている犬のようだ。
「一ノ瀬さんお帰りなさ…っ」
「どのくらい待ってた?」
 ヒトミの言葉を遮る蓮の表情は硬かった。手袋を着けたままの手で、ヒトミの頬を覆う。
 その温かさに身を委ねながらも、ヒトミは蓮の厳しい視線から目を逸らした。
 彼が何を怒っているのかは大体分かっているのだ。
「え、えーと、十五分ぐらいですかね?」
「本当は?」
「……一時間……よりは少ない、かな?」
 言った瞬間に腕を掴まれた。コートから鍵を取り出すや否や、がちゃがちゃと音をたててドアを開ける。
そして自分が部屋に入るよりも早く、ヒトミを部屋に放り込んだ。




「……今日は別に私がお説教される日でも私がチョコ貰う日でもないと思うんですけど」
 テーブルの上に置かれた高級チョコレートは、蓮が土産に買ってきたものだ。
その美味しさに感動しながらも、ヒトミは冷静に考えを口にした。
長々と正当なお説教を大人しく聞いた後だから言える言葉である。
 対する蓮は寄せた眉根をそのままに、ヒトミの持ってきたチョコを食べている。
素材は彼女の食しているものに劣るだろうが、ヒトミの手作りというだけでそれを上回る価値がある。
「いらないなら返せ」
「ああっ、駄目です食べますいただきますっ!」
 伸ばされた蓮の手から逃れさせるように皿を持ち上げて、早口で主張した。
その必死な様子に、硬かった蓮の表情が綻び、「あんまり食べ過ぎるとまた太るぞ」という言葉すら優しい響きになる。
ヒトミもヒトミで、その言葉に怒る様子もない。
「だって今日ずっと我慢してたんですよ?学校に溢れるチョコの匂いにどれぐらい誘惑されそうになったか!」
「我慢しないで貰えば良かっただろう。どうせお前が貰うのは女子なんだから」
 相手が他の男ならば渡すのも貰うのも許せないけれど。
ヒトミがこのイベントを楽しみにしていたのは随分前から知っていたから、一緒に過ごせなかったことには一種の罪悪感があるのだ。
「うーん、でも」
 ヒトミが少し考えて、けれどはにかむように笑う。

「今年はやっぱり一ノ瀬さんが一番だといいなって思って」

 どうするのが良いというのではなく、蓮がそれを望むからでもなく、ただヒトミ自身がそれを望むから。

「……ばーか」
 蓮の顔に浮かぶ柔らかな微笑みに、ヒトミは満面の笑みを浮かべた。




「ヒトミ」
「何ですか?」
 帰り支度をしていたヒトミを呼び止めて、蓮は小さな何かを突きつける。
チリンと鈴の音がその存在を主張した。
「これをやる。失くすなよ」

 手のひらに乗せられたのは、銀色に光る鍵。穴に通された赤い紐の先には、小さな鈴が付いている。

 ヒトミは目を見開いてそれと蓮とを交互に見た。
「これ……もしかして、合鍵ですかっ!」
「そうだが」
「ちなみに、どこの!」
「……ここ以外のどこの鍵をお前にやるんだ」
 何を言ってるんだ、という呆れた口調を気にすることもなく、ヒトミはどうしようどうしようと歓喜に震えて鍵を見つめた。
輝きに溢れたその顔に、蓮は愛しさに満ちたキスを落とす。

「だからもう、あんな風に待つなよ。お前がこの時期に風邪をひくのは二度と御免だ」

 もう二度と、独りの寒さに凍えることないように。
 それは、誰よりも蓮の願うこと。




 ぎゅ、と鍵を握り締め、瞳を潤ませて。
 ありがとうございますという言葉は、彼女からのキスに溶けた。