BETTER DAYS






雨が降っていた。暦の上では九月、夕立はそれほど不思議なことではない。
けれど朝も昼もあんなに晴れていたというのに、夕方になって突然降り出すなど『騙し』だ、とヒトミは屋上の洗濯物を取り込みながら思う。

「ああ、もう!何でこんな日に限って洗濯物多いのっ」
僅かに声を荒げて独り言を言う。言いたくもなる。

ここ最近ずっと雨続きで、洗濯物は溜まりに溜まっていた。
お天気お姉さんが降水確率は十パーセントと言っていたから嬉々として干したというのに、見事に外れて大惨事だ。

そうであっても、普段ならばヒトミが行動に出る前に、兄の鷹士がテキパキと取り込んでみせる。
その兄は父親の仕事の手伝いで、今はマンションにいない。
その上、既に四十キロの肉塊とオサラバしているヒトミは、以前のように一度に大量の洗濯物を運ぶことなど出来ないのだ。

制服のシャツが濡れて腕に張り付くが、それでも傘を差すのは面倒で、ヒトミは何度も雨の中を往復した。



結局全てを取り込んだ時には、ヒトミの体はずぶ濡れになっていた。
屋上の扉をバタンと閉めて息を吐く。
ポケットからハンカチを取り出して体を軽く拭くと、ヒトミは籠を両手に抱え上げ、五階へと続く階段を下りた。


「……何してるんだ、お前」

 ふとどこかから声がして、ヒトミは振り返った。
それと共に前髪から雫が零れ落ちて、ヒトミの顔を濡らす。
振り返った先には、目を見張っている蓮と綾人がいた。
ヒトミはきょとんとした表情で小さく首をかしげる。

「あれ、どうしたんですか。二人して」
「この前、鷹士さんに借りた本を返しに来たんだけど…。それどころじゃないね」
「さっさと行くぞ」

 二人は厳しい顔つきでヒトミに歩み寄った。
ヒトミが抱えている籠を蓮が取り上げれば、綾人はヒトミの手を握って歩き出す。

「え、え、なんで!」

 ヒトミは慌てた。蓮に洗濯籠などというものを持たせた挙句、
拭いたとはいえ濡れて体温の下がった手を綾人に握られている。
どちらも阻止しなければと思うのに、二人はヒトミを連れたまま強引に突き進み、ヒトミの部屋で立ち止まった。



 ヒトミは居心地の悪さを感じながらも鍵を開け、二人を招き入れた。
リビングで待っていてくださいね、と告げて自分は浴室にタオルを取りに行く。
着替えを終えるとすぐにリビングに戻り、ソファーに座っている二人に声をかけた。

「すみません、今飲み物を出しますね。えと、一ノ瀬さんがコーヒー、神城先輩が紅茶でいいんですよね」
「ああ、気にしないで。僕たちが急に来ちゃったんだし」

 ヒトミの声に振り返った二人は、やはり再び目を見開き、そしてはぁとため息を吐く。

「バカか、お前。ちゃんと髪を乾かしてから来い。風邪ひくぞ」
「え、大丈夫ですよ!私は体も丈夫ですし!」

それに待たせちゃうと悪いから、と言うヒトミに、綾人がダメだよと厳しい目で諭す。
蓮は問答無用と言うようにヒトミをソファーに座らせて、手に持っていたタオルを取り上げた。
ヒトミの濡れた髪をタオルで掻き撫でながら綾人に目で促すと、綾人はにこりと微笑んでそれに答える。

「ヒトミちゃん、悪いけどキッチン借りてもいいかな」
「え、ええ?神城先輩?」
「大丈夫、お茶入れるだけだから」

 ヒトミは慌てた。確かに綾人はヒトミの部屋を訪れる時、よく紅茶の葉を持ってくる。
それを自分で入れてヒトミに飲んでもらうのが好きなのだ。
だからキッチンのどこに何があるかなどは軽く把握している。
だが、普段は「ヒトミの部屋」であることを考えて、ヒトミが付き添わない時にキッチンを使うことは無い。
それが気になるわけではないけれど、ただでさえヒトミは綾人にお茶を入れてもらうことを躊躇うのに。

 ヒトミが振り返って綾人を視線で追おうとすると、その首をぐいと手で固定された。
目の前の、しかも至近距離に蓮の不機嫌な顔が見えて、ヒトミは胸を高鳴らせていいのか怯えていいのか分からない。


(な、何なの、この状況!)


 彼らのファンに知られたら確実に殺される。というか、今この状況自体が心臓に悪くて死んでしまいそうだ。
 思わず惚けてしまったヒトミに、蓮はその長い睫毛を伏せがちにしてぶちぶちと文句を言った。

「いくらお前が体力バカだと言ってもな、女が体を冷やすな。まったく、俺たちが来なければそのままのつもりだったんだろう」
「そ、そんなことは無いですよ!」
「どうだかな。大体、どうして傘を使わないんだ。そうすれば少しは雨が防げただろう?」
「………ちょっとぐらいなら平気かなぁって」

 何となく視線を逸らしてみせたヒトミの額を、蓮が揃えた指先で叩いた。
ヒトミはスカートの裾を軽く握り、俯いて「…ごめんなさい」と呟く。
二人が、ずぶ濡れの自分を心配してくれていることは分かるのだ。

ヒトミの謝罪に蓮は何も言わず、彼女の髪を拭くのを再開した。
その動作は丁寧で、優しい。タオル越しに指の動きが伝わるのが心地よくて、ヒトミは自然と瞼を閉じた。
ふと、蓮の手の動きが止まる。

「おい、寝るな」
「寝てませんよっ!」

 閉じた瞼を上げて、ヒトミが抗議する。その瞬間、ひどく珍しいものを見た。
蓮がひどくバツの悪そうな顔をして、視線を逸らしているのだ。
その腕は既にヒトミの頭を解放していて、ヒトミは僅かに首を傾げる。

「……もういいだろう」

 ヒトミにタオルを渡すと、蓮は立ち上がり向かいのソファーに座る。
そのタオルを左手に掴み、右手のほうで髪に触れてみれば、確かに髪は十分に拭かれているようだ。

「ありがとうございます」

 微笑めば、ひどく複雑そうな表情が返ってきた。何だというのだ。
不思議がるヒトミの背後で、くすくすと笑い声が零れた。
カップを手にした綾人が、テーブルの上にそれを置く。
ヒトミの前に置かれたのは、彼女がいつも使っている白い陶器のティーカップだ。

「まだ熱いから気をつけてね」
「す、すみません。先輩はお客様なのに」
「いいんだよ、僕がヒトミちゃんに入れてあげたいだけだから。それより」

 綾人はヒトミの顔を覗き込むように、柔らかに微笑む。
そして、少しおどけたような口調でヒトミに告げた。

「あんまり無防備に目を閉じちゃ駄目だよ?ヒトミちゃんは可愛いんだから」

 綾人の言葉に、蓮とヒトミが同時にむせる。
綾人がにこにこと見守る中、蓮がいち早く立ち直り、平静を装って綾人を睨めつけた。

「神城、いきなり何を」
「え、でも蓮もそう思うでしょう?」
「せんぱいっ、もういいです!もう十分です!」

 恥ずかしすぎて死ぬとはこのことだ。ヒトミは真っ赤になって綾人を止めた。
綾人はやはり平然とそれを受け止める。ほらね可愛い、と言うと蓮は否定もせずに微笑した。

「…まあ、随分女らしくはなってきたな。前は女と言うより珍獣だったが」
「ち、珍獣…」

 それはいくらなんでも、と思ったものの、出会い当初の体型を思い出してみると否定は出来ない。
(いいんだ、今のは褒めてもらったってことだもんね)
 うん、そう思うことにしよう、とヒトミは一人頷く。素直じゃないなぁと綾人が苦笑すると、蓮は憮然とした表情でそっぽを向いた。

 綾人が入れた紅茶を三人で味わっていると、その騒ぎすらも落ち着いて雨の音がよく聞こえた。
どうかな、と綾人が問えば、ヒトミは満面の笑みで「美味しいです!」と喜ぶ。
その笑顔に、綾人は更に笑みを深くした。彼女の「美味しい」は作り手にとって最高の礼なのだ。
蓮も満足げに頷いてから、そういえば、とヒトミに尋ねた。

「鷹士さんはまだ帰ってきていないのか?」
「あ、はい。今日は仕事で出かけてて。―――本なら私、預かりますよ?」

 ヒトミがそう申し出れば、ああそうしてもらうと助かるかな、と綾人は笑う。
表紙から考えて恐らく洋書だろう。テーブルに置いていた本を三冊、ヒトミに手渡した。

「うわ、難しそうな本…」
「とても面白かったよ。今度改めてお礼に来るけど、鷹士さんにありがとうございましたって言っておいてもらえるかな」

 ヒトミは頷いて答えた。そして蓮に視線を向けるが、よく見れば蓮は本を持っていない。

「一ノ瀬さんは?…あ、もしかして他の用事だったんですか?」

 ヒトミが尋ねると、蓮は言葉に詰まった。
その視線はちらりと綾人に向けられたが、綾人はただ微笑むだけで特に何かをする様子は無さそうだ。
ふぅと息を吐いて、ヒトミに一枚の紙を手渡す。

「……チケット?」

 それは映画のチケットだった。
一週間前だったか、ヒトミが見に行きたいと言って、蓮に「お前は映画を選ぶセンスも無いのか」と呆れられたそれだ。
ヒトミはチケットをしばらく見つめて、そしてその視線を蓮に向ける。

「明日は暇か」

 その問いに、ヒトミは期待に満ちた目でこくこくと頷いた。
明日は日曜日だ。用事が無ければダイエットに勤しむが、誘ってくれるというならば話は別である。
そして何より、『蓮から』誘ってどこかへ出かけるということ自体が滅多に無いのだ。
ヒトミの分かりやすい表情に蓮は口元を綻ばせた。
良く出来ましたというような、温かみに満ちた笑みで綾人が言う。

「あ、僕も行くけどいいかな?」
「はい、勿論です!」

 ヒトミは嬉しそうに頷く。その溢れんばかりの笑顔に、綾人は少し可笑しそうに蓮に微笑んでみせた。

「ほらね、やっぱり良かったでしょう?」

 その言葉が何を意味するのか、ヒトミには分からない。
けれど、綾人の言葉に、蓮は驚くほどに優しい微笑を浮かべた。それだけで良いと、思った。





 二人が帰るとヒトミは自室に戻った。
雨は未だ降り続けていて、窓を開け放てば、その雫が僅かにヒトミの髪を濡らす。
その雫すら温かいような気がして、ヒトミは笑った。
窓枠に頬杖をつき、心地良さそうに目を閉じる。
唇から小さく零れる歌声は、ザァと降り続ける雨の音と重なり、溶け合っていった。










―――明日、天気になぁれ。