AFTER TASTE
普段よりも騒がしいバレンタインデーの放課後も、五時を過ぎると自然に落ち着いてくる。
喧騒の収まった保健室でギシギシと椅子を鳴らしながら待ち人を待つのは、この部屋の主だと自称する若月龍太郎だ。
若く見目も良く世話好きな彼は教師の中でも人気があり、目の前の机には本日の戦利品がちゃっかりと鎮座している。
普段ならば他の女性からの贈り物など、恋人のほのかな嫉妬の対象にしかならない。
けれど、この日だけは別なのだ。美味しそうなチョコレートの山に、愛しい彼女が言うことはただ一つ。
「先生、羨ましいです」
真面目に言っている彼女に肩を落とし、義理チョコを分けてやったのは去年のことだったか。
食欲最優先でも多少は気にするらしい彼女のために、今年は気を遣って完璧な義理チョコだけを受け取った。
そのため残ったチョコレートは去年よりも格段に少なく、けれど特に甘党でもない彼はあまり気にしていない。
龍太郎は緑茶をすすった。普段はコーヒーを好む彼だが、今日だけは事情が違う。
目の前にある、開封済みの包みをちらりと見やる。ピンクの包みから、手作りの小さなチョコレートがチラリと覗いた。
「せーんせっ」
明るい声が扉の音とともに響いた。振り向くと、扉の向こうからポニーテールの少女が笑っている。
入っても良いですか、と小声で問う彼女に、龍太郎は「遅ェよ」と苦笑した。そして、来い来いと手招きをする。
それに促されて龍太郎に近づいた彼女が、真っ先に気にしたのは机の上だった。
「……先生、人気落ちましたか」
言うべきはそこか。今年も肩を落とす羽目になった龍太郎は、多少、いやかなり呆れたように笑う。
「ンなわけあるか。オレ様の人気は永久不変だ。今年はお前のために空けておいてやったの」
「それは嬉しいですけど」
鞄の中からチョコを出し、それを龍太郎に渡しながらもヒトミは不満気だ。
どうしたのかと視線を追ってみると、どうやらその理由は机の上にある包みにあるようだ。
開封済みの、可愛らしいピンクの包み。明らかに手作りと分かるチョコレート。
「それ、うちのクラブの奴らが持ってきたんだが、食ってみるか?」
龍太郎がえらく機嫌良さそうに問うた。その言葉に、ヒトミは目を瞬かせる。
なるほど、料理クラブの差し入れか。それならば手作りなのも妙に気合が入っているのも、龍太郎が受け取ったのも納得できる。
素直に頷いたヒトミの口に、龍太郎は直接チョコレートを入れてやった。
「〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!」
ヒトミは悶絶した。バタバタと手足を動かし、片方の手で龍太郎の背を思い切り叩く。
「な…これ……っ」
涙目になりながらも言葉に出来たのはそれぐらいで、もっと言ってやりたい文句がちっとも出てこない。
舌が染みる。涙が出てくる。
してやったりという顔の龍太郎は、ヒトミの拳を体で受け止めながらも満足げだ。
「わさびチョコだとよ。オレ様もさっきやられて、散々ヤツらに笑われたんだからな」
「笑ってないでお茶ください〜っ!」
許可を待つでもなく、龍太郎の手の中にある湯飲みをふんだくると、ヒトミは豪快に飲み干した。
その様子に龍太郎はますます可笑しげに笑う。
料理クラブと聞いた時に何故こういうことを想定しなかったのだろう。
あそこはいかに食べる者を出し抜くかに命を賭けている集団だと言うのに。
わずかに感じていた嫉妬の感情など完璧に消え失せて、今残っているのは彼女たちの徹頭徹尾の信念への感服の気持ちだけだ。
「うう…まだ舌に後味が……」
「よしよし、じゃあ今度は口直しにこっちをやろうか?」
「もういりませ…っ」
驚いた。見上げたすぐ間近に、龍太郎の顔があったのだ。
ヒトミが作ったビターのチョコが彼の口に含まれ、それが彼女の唇をこじ開けた。
「ふ…んぁ……ん…っ」
何度も何度も舌が絡み合い、粘ついた液体の混ざる音が響く。
やっと唇が解放されたのは、チョコレートが唾液と共にヒトミの喉を通った頃だ。
口端に零れた唾液を舐め取る彼の顔が、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべている。
「今度は甘かっただろ」
笑顔でそんなこと聞かないでほしい。
チョコレートの味など判別できるような状況ではなかったし、それを許さなかったのは彼のほうなのに。
「そんなの分かりません!先生の馬鹿!」
頬を真っ赤に染めて潤んだ目で睨む彼女に、じゃあもう一回するか、などと平然と言う。
ここをどこだと思ってるんですか、という小さな抗いはもちろん何の効力も持たなかった。